知らしめるためのブログ ~akiLaの日記~

主にお知らせ、それにまつわる物事についてつらつら書きます。

梅若定式能を見に行きました。


会場に知っているお友達がいたりして、いつもみたいな住所不定みたいな格好ではなく、比較的ちゃんとした格好で見に行って本当によかったと思いました。

四時間があっという間で、本当にびっくり。
シンゴジラの中のひともいたりして、いたく感激しました。

花伝書を時おり読むのですが、芸能は長寿を祈るものであるといわれていますね。
なんとなく「そーだなあ」と思ってはおりましたが、今日のお能を見て、実感したことがあります。
それは、声や楽器を用いて、
観客の身体を、観客が普段使ってない肉体の部位を震わせていることと関係があると思います。

以前、山中先生の能の体験稽古に伺ったときに
「能で使われるよい笛は、人間の可聴域を超える音が出る。それゆえ、『笛の音は聞こえずとも鼓膜が振動している』状態になる」
といったお話を聞いたことを覚えています。
「生きている」人間の可聴域以外の音は、能の主なテーマである「死者」へ捧げる音だという、ジョジョのスタンドバトルみたいなロジックもいまだに頭から離れません(笑)

そして今日「音は聞こえないのに鼓膜が震える」というその現象が笛や太鼓、謡の声で何度も起きました。

人間の鼓膜のまわりには、あぶみ骨やツチ骨など、筋肉がくっついたホネがあります。鼓膜が振動すれば上記の筋肉や骨も振動する。
電子機器からの音や声に慣れきった我々、普通に聞こえる音や声に慣れきった我々は、なかなかそういう耳の中の筋肉を揺さぶることはできない。
そこで、伝統芸能としての能は、観客の肉体に潜む、普段使われてない筋肉を震わせ、動かすことで、観客の健康や長寿を間接的に(見方によっては直接的に)祈り、そうなるように魔法をかけているのだと思います。

これは、映画や西洋音楽ではなかなか起こらない現象です。西洋音楽では聞こえる音だけを楽譜にするし、映画でも可聴域以外の音は拾えないし。

それを、身体感覚豊かななん百年も前に能をつくった人々は、本能的に悟ってたんじゃないのかなー、とまで思いました。

思いを馳せるのは、昔々の主な観客だった武士たちのことです。
「翁」は年初におこなわれる演目だとは知ってましたが、現代の我々にとっての、「今年も頑張るぞー❗おー‼」みたいな、サッカーやラグビーが始まる前に、チームが一丸となって
「気合いいれてくぞー❗」みたいな、そんな意味合いがあったんだろーなあ、たぶん。

悲しいのは、舟弁慶です
参覲交代とかで、遠くの国に奥さんや子供を残して江戸に来た武士たちが、義経静御前の場面を見せられたときには、きっとみんな自分でつくった大切な家族のことを思っていたんじゃないのかな。
しかももし、当時から義経を、比較的お年を召されてないかた(「ちっちゃい子」というとぼくも含まれてしまう)
が演じることになってたとしたら、演じてるその子と、自分の子供を重ねてみてたかもしれませんね。

静御前が立ち去ろうとして、立ち止まり、戻ってくる。そこのシークエンスが秀麗である、と僕の家の能のガイドブックにはあったので、
「どんなかなー」と思ってたら想像以上に
「ウッ」てなりました。

そーゆー悲しい部分がありつつも、後半のすごいバトルでは、観客の武士たちは
「俺も、マジでヤバイやつが現れたら、ぶったおすぞ‼‼」と、鼓舞されていたのではないかと思います。
もちろん、ぶったおしたのは弁慶の仏教的な功徳によるところであり、仏教への帰依を強化し、正当化するということが、主眼にあったのだとはおもいますが。

源義経をされていた女の子はとても素晴らしかったです。
でっけーなぎなた持ってるマジヤバイ悪霊に、小さい刀で対抗してました。
「リーチが‼💦圧倒的格差💦」と思いました。
山中先生の足さばき、爪先で異形を表すあの恐ろしさは、そこだけ景色が切り取られたかのようでした。
今度はあの女の子は、尻尾や背鰭から紫色のビームだす野村萬斎と戦ってほしいです(笑)

狂言は、「え、待って、あの人間国宝の側転が見れるのか⁉⁉」と思ったとき、
渋谷のハロウィンで仮面を被った瞬間くらい、心臓がドキドキしました。
それ以降の展開は、想像以上におかしく、美しかった、というか、愛らしかった。

今年は、いい年になりそうだなあ✨

f:id:akiLa:20190105193054j:plain