知らしめるためのブログ ~akiLaの日記~

主にお知らせ、それにまつわる物事についてつらつら書きます。

北斎展にいきました

北斎展を見に行った。
ムンクのときもそうだったが、北斎も若い頃はずっと写実写実写実。

それで型を身につけていったんだなあ。

僕はどうなんだろう。

型を身に付けてる途中なのだろうか。

型崩れしてるだけなんだろうか。

大学のある期間で、守破離の1サイクルを味わったような気がするけれど、今の自分はどうなんだろう。

あと、微細であることを賞賛するのは勝手だが、そこだけ注目して賛美してるだけでは、もっと大事な見識を失うと思う。

微細であることは、必ずしも表現されたものにたいする哲学に結び付かないから。

それにしても、東海道五十三次をあんな近くで見れるとは思わなかった。

船に乗ってる人たちは、祈るように、土下座してるように、船にしがみついてた。

また、別の絵では服の部分だけマニキュアでいうところの「ラメ」のような光沢がちりばめられていたり、楽しませる工夫が二百年以上も現存することに驚いた

さらに、「三美人」という絵画があるのだが、顔がはっきりわかるのは一人だけで、二人は後ろを向いてたり、横を向いてたり。
そーやって、見てるやつの想像力をかきたてて、その絵の前にとどまらせる。

そしてもっとも特筆すべきは、北斎がかなり若い頃「放屁図」という、おっさんが蝋燭に向かって放屁してる絵を描いてて
「なんだこれwww 」と思ったんだけど、

80歳くらいになって、名前を画狂老人卍に改名しても、ほとんど同じ構図の「放屁図」を描いてて
たとえ天才でも、たとえジジイになっても、男はいつまでもバカなガキンチョなんだな‼といたく感動しました。マジ卍。

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《akiLa》🎉誕生日を迎えました🎉《爆誕》

ティーンエイジャーの頃、
「なんでおじさんやおばさんは、自分の年齢を低く言うのだろう?」
と思ったことはありませんか?

僕もその一人です。

その一人だった僕は、おととい2月9日、演劇的な一日の打ち上げで
「実は明日、19歳の誕生日です‼」
と参加者の皆様の前で言い放ちました。

トンでもない空気になってしまいました。

いいか、小中高校生の諸君。
君らも10年、20年たったら
誕生日になるたびに我々と同じような小ボケをかまし、まわりをドン引きさせることになるのだぞ❗
覚悟しいや❗(岩下志麻)


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さてとうとうアラサーになったわたしですが
今後のために目標をここに書いておこうかな。

⚫大きな目標
英語と中国語の勉強をしたい💦
TOEIC800点はとりたい😢
中国語も何かしらの級は持ちたいです。
グローバルだからね。

こども食堂のボランティアをしたい。

⚫普通な目標
簿記検定
Mos
絵の練習
ギター、音楽の練習
統計検定
文章による物語を最後まで作りたい

うーむ、これは毎年思うけどやってないなあ。
やらざるをえない機会をつくっちゃえばいいのでしょうけど。



そして最後に
こいつを超えるものを作りたい
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…なんだこの終わりかたwww

こんなかんじで、今年もよろしくお願いします🙇

20190209地域演劇交流イベント「演劇的な一日」に出演しました🙋

演劇的な一日、無事終演いたしました‼💃
あんなに暖かいお客様たちだったのは本当に感動しました✨

そして、差し入れ(意味深)

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ありがとう😆💕✨




この世の中は悲しいことがあまりにも多い。

まるで、自分が被った辛さなど矮小でしかないと思うかのような。

でもそれらはすべていつか忘れていってしまう。

踏みとどまって、忘れないことも必要ではないか。

悲痛の叫びをこの世に刻み込まなければ。

そう思って作ったのがあの一人芝居でした。

だから、今は、そーゆー要素を含む芝居がやりたいのです。

誰かが言っていた。
表現者は、社会と表現の繋がりをダイナミックに表現することを常に心に刻んでおけと。
社会において、未熟であるがゆえに一人で苦悶する人間を表すことは、今回のイベントにおいて私にしかできないのではないか。
そう思いながら今回の一人芝居を作りました。

あとは、「一枚絵のようなシーンで終わる劇」を作りたかった。
インセプションゴジラvsデストロイアのラストのように、静謐で美しく、何かの予感が広がっていくような、考察が生まれるような(笑)終わりを作りたかった。というか、最後の場面は、むかーしから閃いていて、いつか必ずやってやろ、と思ってたので、やれてよかったと思います。

感想で、僕の肉体の使い方について言及してくださる方が大変多く、ありがたい限りです。

ストレッチや筋トレが好きだと、自分の体についていろいろ考察をめぐらせます
「こうやってたつと、右足がりきむなあ」
「壁に寄っ掛かった方が足首がストレッチしやすいな」
「逆立ちで歩きてえなあ」
などなど。

そんなことばっかり考えてるし、身長がクソチビですから、かっこいい動きなんかできないので、とりあえず自分のなかで「これはしっくり来る動きだなあ」っていう動きを組み合わせていきました。

また、毎年何十本も映画を観てるのですが、
ご存じの通り、ジャンルが片寄ってますwww
ビー玉床に置いたらゴロゴロ転がっていきますwww
遊星からの物体X
ビートルジュース
スキャナーズ
エイリアン
などなど。肉体がドカーン、バーン、グチャーン
ってなるやつばかり観て、「うおおすげー」って思います、アラサーなのに。
そういうものが根底にありますから、
自分の肉体の扱いも、そのようなものへと指向していく。
そこらへんをきわめていって、東京でもアンチakiLa を作ったほうが、ムーブメントとしては面白いのかな(ちょっとなに言ってるかわかんない)

ワークショップは、非常に貴重で、これからの経験にとってもとっても役立つ時間でした。

そもそも僕は、客席と舞台がわかれたところでワークショップをするのが今回初めてで、お客様の反応が全く予想できませんでした。

ところがいざ始まってみると、お客さんの
すんなり参加する姿勢に大変助けられて、

個人的な予想では、お客さんは多くて15人くらいかなあ、と思ってたのに、40から50人くらいいたように思います。
しかも予想以上に盛り上がり、とても楽しかったです。
今回やったあれ、外国でもできるんじゃないのかな?言葉が通じない人間にたいしても
「真似してくれ」というメッセージが伝われば、これも成立するのでは?と画策しています。


とまれかくまれ、参加して本当によかったです👍
南大塚地域文化創造館の皆様、参加者の皆様、お客様、そして音響照明を手伝ってくださった山葵まやさま
本当にありがとうございましたッッッッ‼

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《センター試験 大学入試の記憶》

僕の通っていたN大Y形高校は、
母体の大学がタックル事件起こしたように、ならず者が集まる自称進学校(笑)であった。

山形東高校というスゲー頭いい高校のOBが
「あの学校のやつらは道に落ちてるものを食らう」と吹聴するような、虎の穴的な高校であった。(諸説あり。生徒たちが節分の日に恵方巻を万引きしたという説もある)

そんな高校の
「大学特進(笑)コース(笑)」に通ってた僕が志望大をあの大学にした遠因は高校一年4月。

高校生になったら演劇部にはいると決めてた。
が、あるとき一人の頭頂部が光ってる教員がこう言った。

「特進の生徒は原則運動部、吹奏楽部、演劇部には入ってはいけない、大学入試に落ちるから」

そんなことを言われた僕は
「なんだこいつ💥ザビ⚪ルみたいにハゲ散らかしやがって!」と
その日に演劇部の顧問に入部届けを出した。

ところが一年の頃は勉強が全然できなくなった。今思えば当然の結果だが、そのことで親に非常に苦しめられた。

うだつのあがらない一年生だったが、二年生、三年生となるうちに演劇部に後輩が入ってきた。

一人を除いて、みんな本当にいい子達だった。

だから、一人を除いて、後輩たちを大切にしたいと思った。一人を除いてwww

そんななか、二年生のなかばくらいに、こんなことを考えた。

「僕が一年の4月に教員に言われたあんな屈辱的なことは、今後入ってくる後輩には言わせない。そのためには、あの大学に入る必要がある」

ふざけたことをぬかしたザビエルみたいな頭の教員の科目は数学。演劇部に入ると落ちる、という命題に一つでも反例があればその命題は成り立たない。
僕がその反例になろうと思った。


そこから試験のことを考えた。
何はともあれ本番はペーパーテストだから、練習である毎日の勉強も
「紙に三回書く」ことしかしなかった。
数学の証明も三回、リスニング問題を解いたらスクリプトと模範解答を三回、現代文の小論文問題も模範解答を三回…ノートや無駄紙に片っ端から書いていった。

それがとんでもない伏線になっていたなんて、その時は全く予想してなかった。

受験勉強は孤独であればあるほどいい。でも、耐えられなくなる時が来る。
そんなときは
部室で漫画読んでる友達や、
しきりに新興宗教系の大学を薦めてくる友達、元旦も仕事をしてる先生などが心を緩めてくれた。

家族は千羽鶴などを折っていたが、正直、よくわからなかった。し、
自分の子供のことについて子供の前で神頼みをするということは、
本当は子供のちからなど全く信じていないのだ、というふうにしか受け取れなかった。

何はともあれ、僕はいい先生と友達に恵まれておった。

で、センター試験の本番。
51点。
一日目の数学1Aが、壊滅的な自己採点結果だった。
2Bも最悪で、最後らへんは時間がなくひたすらマークを埋めた。

今までの勉強で、答えとして「5分のルート21」という数値が多く出てくるということがわかってたから、分からない問題で分数の部分はその数字をマークした。当たってた。

数学が本当に壊滅的で、不安が高まり一日目の夜僕は深夜3時まで勉強してしまった。

そして、二日目の日本史。
僕は暗記科目は間違いの選択肢にツッコミを入れることで正誤判定していた。
「時代が違うだろ!」
「急にお前出てくんな!」
みたいに問題文にツッコむ。

7割くらい解いていた時、脳内ツッコミのキレが恐るべき原因で歯こぼれしてきた。
急激な眠気である。
メガシャキを飲んでたはずなのに。
眠気の原因はもちろん、夜中まで勉強しすぎたからであった。

左手の親指に鉛筆を突き刺す。
それでも眠気はおさまらない。

眠ってしまえばもしかしたら残りの3割を解けないまま試験時間終了まで寝過ごしてしまうかもしれない。

かといって眠らなければ文章も読めず頭に靄がかかるくらいの睡魔だから、正答はおろかマークシートを塗りつぶすことすらできない。

眠るか眠らざるか、それが問題だ。

悩んだ結果、眠ることを選んだ。

起きたときに10分、いや5分でもあれば全問スッキリした頭で解けるかもしれない。
根拠の全くない、賭けであった。
数分後の未来の自分の肉体を信じて目を閉じた。さらば、僕の意識。








ガクッ。
座りながら居眠りしてるやつがよくやる、恥ずかしい痙攣で目が覚めた。すぐに時計を見る、僕は10分程度しか寝てなかった。お陰で残り時間は15~20分程度あった。
僕の脳内は富士山の頂上ばりに冴え渡るツッコミを展開していく。

源義朝源義経間違えるか!阿藤快加藤あいぐらい違うわ!ガハッ」

「そんな時に大臣変わんな!11月に冷やし中華始めましたみたいになってけどよぉ」

「ごめんねぇ~ゾロゾロゾロゾロ文章書いてあっけどこれ、『鳥羽伏見の戦い』じゃないのよぉ~」

僕の脳内ツッコミはくりぃむしちゅー上田のごとく炸裂していった。(諸説あり)

そのあとの教科もつつがなく終わった。けど、やっぱり数学があまりにも散々だったのでその時は本当に滑り止めの大学にいくことを覚悟した。

数日後、学校の三者面談のバンザイシステムで第一志望大にチャレンジできるということを知り、二次試験に向けて(数日気が抜けたけど)そのあとも頑張った。

それで、2月中旬くらいになった。
大学二次試験の当日。

受験会場で、参考書やワークを見ながら佐野元春の曲をウォークマンで聞いてた。

「仕事もテキトーに皆待ってる店までHurry up 」みたいな歌詞だった。受験直前なのにwww

僕のなかには怒りがまだあった。

勉強ちゃんとやってたら、部活がどんなにいそがしかろーと、目標に行けることを証明してやる。

そーゆー怒りがあった。怨の気持ちに満ちていた。

ところが試験開始直前、僕は一番前の席に座ってたが、問題用紙を配る女の人が、すさまじい色気を放っていた。
そのスーツはサテンでできてんのか?と思うくらい光沢のあるパンツスーツでピチッとしていたので、身体のラインが強調されていた。
20代後半くらいの眼鏡をかけた女の人に直接問題用紙を渡された僕はこう思った。

受かろう。(史実です)





試験開始。

英語はあまり記憶がないので、つつがなく終わったのだろう。

数学はやっぱ壊滅的。
というか、文学部の試験なのに数列的知識を要するものだった。だから、正直、2枚目は何も書けず白紙で出した。

奇跡は国語で起きた。


いろんな心ないやつ(特に野球部の連中)や親からもバカにされた、三回書いて覚える勉強法が、実を結んだ。

国語の現代文、小説を解こうとしたその瞬間僕は自分の瞳を疑った。

何故ならば、現代文の授業で、教科書内容とは別に生徒たちに渡されていたワークの問題がほぼそのまま出題されたから。

問題も、三回書いたものと同じ。
そして僕の手は、答えを覚えていた。

終わったあとには何も後悔はなかった。
これでダメならしょうがない。

結果は、合格。

ホームページで自分の番号を見ても、何かの間違いだと思った。
とりあえず、本当は不合格だった場合、訴訟になったときのために写メは撮っておいた。
入学式も、「一般人が会場に入れるから」という理由でその時点でも信じてなかった。

後日大学のオリエンテーションで僕の名前が名簿にあったとき
「本当に合格してた!」
って初めて実感したのをいまだに覚えている。




試験をお受けになるかたには

「高校のレベルが低いから…」
とかそんなこと考えずに知恵と記憶を出しきる。

楽しかったことや自分が好きなヤツラのことを思い出す。

試験という現状を面白がる。

直感を信じる。迷ったら最初に選んだ選択肢にマーク。

そういうことが伝わればよいなと思います。
そしてもっとも大切なことは‼

試験前日はよく眠る‼
俺みたいに左手に鉛筆刺したくないだろう⁉

緊張したらたらふく食って、カモミールティー飲んで布団に入れ‼🙇

だから、今日は、もうおやすみ‼💤

センター試験、いつもどおりの自分で頑張ってください👌

梅若定式能を見に行きました。


会場に知っているお友達がいたりして、いつもみたいな住所不定みたいな格好ではなく、比較的ちゃんとした格好で見に行って本当によかったと思いました。

四時間があっという間で、本当にびっくり。
シンゴジラの中のひともいたりして、いたく感激しました。

花伝書を時おり読むのですが、芸能は長寿を祈るものであるといわれていますね。
なんとなく「そーだなあ」と思ってはおりましたが、今日のお能を見て、実感したことがあります。
それは、声や楽器を用いて、
観客の身体を、観客が普段使ってない肉体の部位を震わせていることと関係があると思います。

以前、山中先生の能の体験稽古に伺ったときに
「能で使われるよい笛は、人間の可聴域を超える音が出る。それゆえ、『笛の音は聞こえずとも鼓膜が振動している』状態になる」
といったお話を聞いたことを覚えています。
「生きている」人間の可聴域以外の音は、能の主なテーマである「死者」へ捧げる音だという、ジョジョのスタンドバトルみたいなロジックもいまだに頭から離れません(笑)

そして今日「音は聞こえないのに鼓膜が震える」というその現象が笛や太鼓、謡の声で何度も起きました。

人間の鼓膜のまわりには、あぶみ骨やツチ骨など、筋肉がくっついたホネがあります。鼓膜が振動すれば上記の筋肉や骨も振動する。
電子機器からの音や声に慣れきった我々、普通に聞こえる音や声に慣れきった我々は、なかなかそういう耳の中の筋肉を揺さぶることはできない。
そこで、伝統芸能としての能は、観客の肉体に潜む、普段使われてない筋肉を震わせ、動かすことで、観客の健康や長寿を間接的に(見方によっては直接的に)祈り、そうなるように魔法をかけているのだと思います。

これは、映画や西洋音楽ではなかなか起こらない現象です。西洋音楽では聞こえる音だけを楽譜にするし、映画でも可聴域以外の音は拾えないし。

それを、身体感覚豊かななん百年も前に能をつくった人々は、本能的に悟ってたんじゃないのかなー、とまで思いました。

思いを馳せるのは、昔々の主な観客だった武士たちのことです。
「翁」は年初におこなわれる演目だとは知ってましたが、現代の我々にとっての、「今年も頑張るぞー❗おー‼」みたいな、サッカーやラグビーが始まる前に、チームが一丸となって
「気合いいれてくぞー❗」みたいな、そんな意味合いがあったんだろーなあ、たぶん。

悲しいのは、舟弁慶です
参覲交代とかで、遠くの国に奥さんや子供を残して江戸に来た武士たちが、義経静御前の場面を見せられたときには、きっとみんな自分でつくった大切な家族のことを思っていたんじゃないのかな。
しかももし、当時から義経を、比較的お年を召されてないかた(「ちっちゃい子」というとぼくも含まれてしまう)
が演じることになってたとしたら、演じてるその子と、自分の子供を重ねてみてたかもしれませんね。

静御前が立ち去ろうとして、立ち止まり、戻ってくる。そこのシークエンスが秀麗である、と僕の家の能のガイドブックにはあったので、
「どんなかなー」と思ってたら想像以上に
「ウッ」てなりました。

そーゆー悲しい部分がありつつも、後半のすごいバトルでは、観客の武士たちは
「俺も、マジでヤバイやつが現れたら、ぶったおすぞ‼‼」と、鼓舞されていたのではないかと思います。
もちろん、ぶったおしたのは弁慶の仏教的な功徳によるところであり、仏教への帰依を強化し、正当化するということが、主眼にあったのだとはおもいますが。

源義経をされていた女の子はとても素晴らしかったです。
でっけーなぎなた持ってるマジヤバイ悪霊に、小さい刀で対抗してました。
「リーチが‼💦圧倒的格差💦」と思いました。
山中先生の足さばき、爪先で異形を表すあの恐ろしさは、そこだけ景色が切り取られたかのようでした。
今度はあの女の子は、尻尾や背鰭から紫色のビームだす野村萬斎と戦ってほしいです(笑)

狂言は、「え、待って、あの人間国宝の側転が見れるのか⁉⁉」と思ったとき、
渋谷のハロウィンで仮面を被った瞬間くらい、心臓がドキドキしました。
それ以降の展開は、想像以上におかしく、美しかった、というか、愛らしかった。

今年は、いい年になりそうだなあ✨

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まあさマイムワークショップに参加しました🙋

12月8日、まあささん@maasaTw  というパフォーマーのかたのマイムワークショップに参加しました✌

僕自身、ノンバーバルコミュニケーションについて自分のなかで大きなテーマにしています。

ノンバーバルコミュニケーションや、声の高低や強弱のみで何がどこまで伝わるか、または観客に何を想起させるか、ということが僕の中で大きな問いになってるのはどーしてかとゆーと、
グローバリズム同様、世代間コミュニケーションでも齟齬が起きる現代において言葉にならないコミュニケーションが大切になってくると思うからです。

それもあって、どこの国の言葉でもない言語を話す役をしたことがあります(笑)

それほど、言葉を使わない表現にたいして非常に興味があったときに、Twitterでワークショップのお知らせがあり、申し込みをしました💂
「壁のアレとかエスカレーターのアレ的なパントマイムかな!」と思ったら、

とてつもない、すごい次元の、それでいて、飢えていた自分に火がつくような、時間でした。
凄まじきとこに、来てしまった。

内容については、もちろん身体動作に主眼を置くワークでしたが、忘れていたエッセンスをいくつも思い出させてくれました。
そのように復活した、数々の生理感覚においてもっとも重要なのは呼吸です。
呼吸は生きる人間にとって不可欠です。
ゆえに、呼吸を振り付けのようにパフォーマンスに盛り込むことで、その表現が、「じか」なもの、のっぴきならないもの、になります。
間もつなげます。
あとは、個人的な肉體への捉え方、パーセプションでしかありませんが、
呼吸をすると、頭蓋が広くなり、脳も緩むような、そんな感覚がむかーしからあります。
僕の身体にたいする見解は、
脳も體の一部であり、身体中の神経細胞もまた、脳の役割をしている、そんな感じです。
「身体ー脳」という対立構造図式ではなく、身体のなかに脳も含まれている、そんなかんじ。

そうなってくると、僕はよく、ワークショップとかでも、「アンギラス」の話をします。

アンギラスとは、ゴジラが初めて戦った怪獣です。
恐竜でいうところの、アンキロサウルスのように地面にお腹を這いつくばらせて四足歩行する、身体中トゲトゲの怪獣です。

ゴジラがゆっくり動くのにたいして、アンギラス
めっちゃはやく動けます(そういう設定)
だからゴジラが攻撃を当てられず、苦戦を強いられます(そういう設定)

じゃ、なんでアンギラスは速く動けるかというと、
なんと、身体中に脳味噌があるからです。
あるんです!(カビラ)

だから、手足やしっぽなどにも頭脳がついており、それぞれ繊細な動作を可能にするため、素早く動ける、そんな屁理屈が理由です。

ぼくは、上記のような身体観が、とても好きです。実感を伴ってるからです。
今回のまあささんのワークショップのように、呼吸をすることで、脳を、體を緩ませる、そうするといいアイデアが生まれるし、無駄なリキミがないから流れるような表現もできる。
そういうことを大事にしてた自分を再発見し、今後も大事にしようと思いました✨

そのあと、自由ヶ丘のカフェにまあささんと参加者の皆さんでいきました。
自由ヶ丘という言葉を聞いただけで、まだ上京して1年の僕は「年収2000万以上の人しか入っちゃいけない街や…」と恐れおののいておりましたが、楽しく、深く、豊かなお話ができて、よかったです。

その話のなかで、演劇教育のことが挙がりました。
演劇教育は公立私立、小中高大関係なく必要であり、効果があります。いろんな効果がありますが、僕は多様性への対応に、演劇教育ならではの教育的メリットがあるように思います。

多様性の例としてまずひとつに外国のかたとの関わりかたがあります。外国人労働者流入が容易になった昨今、外国生まれの子供も日本にどんどん増えるでしょう。そういう、日本のルールを前提としない相手にたいして、どのように接するか?

二つ目は家族の多様化です。
自民党のなかにも、野田聖子河野太郎あたりが(限定的ですが)選択的夫婦別姓が現代に適合する制度なのではないか、と考え、それを発信できるくらいの世の中になりました。
そして、僕自身、両親の離婚や再婚で、苗字が数回変わってます。それと同時に家族という形式もいろんなものがある、と痛感?(笑)実感しました。
「家族っていいよね!実家大好き!」な人もいれば
「家族より友達の方が好き」「家族のなかでも〇〇は好きだけど××はキライ」「家族を知らない」そんな家族観の人もいます。伝統的価値観が崩れ、これまた多様化してる。

三つ目は、性の問題。
LGBTが社会的に取り上げられていますが、その見方は世代や個人によって全く異なる。たんにおじいちゃんおばあちゃんだからとて、理解がないわけではない。
「身体的特徴はあるけども、自分には性がない」と思う人もいるし、「自分は人間よりも好きなものがある」と考えて、建物と結婚した人も海外に実在します。性文化にも単なる男女の二分化では追い付かない現実がある。


ぼくは、自分が知らない世界の人間を知り、どのように対応するかのシミュレーションとして演劇教育はかなり効果があると思います。
例えば女の子の友達Aに「彼氏できた?」って聞いたときに
「もしもAが女の人が好きだということをずっと隠してたら?」みたいな、「もしものシチュエーション」を生徒に与え、演じて見せることで、ペーパーテストではない、ほんとの意味の多様性への理解が促進されるように思います。
「彼氏できた?じゃなくて、好きな人できた?って聞けばいいんじゃね?」
「じゃあ、『人を好きになる』ということがわからなかったら?そもそも人ではないものを好きになる人だったら?」みたいにシチュエーションの難易度を段階的に高めていったりしても、面白いかもしれないですが。

で、こんな演劇教育は、残念ながら学校の先生にはできません。てか、忙しすぎると思うので、やりたくなきゃしなくていいです。 
そのかわり、教員免許をもて余しながら生きている演劇人は沢山いると思うので、そのような「民間の活力」を導入してはくれんかね?
というのが、僕の今考えてるところです。

こんな感じかなあ。
とにかく、昨日のワークショップはこのように、思考の深化を発露させるような、たくさんの実りがありました🙋

また行きたいです‼f:id:akiLa:20181209172212j:plain


もう一度見たい舞台。

好きって訳ではないが、もう一度見たい舞台がある。

それは高校演劇大会の地方予選でおこなわれた、他校によるかぐや姫を脚色した芝居。あれはやばかった。

ヤバかった点を以下に列挙したい。 

⚫業務用のゴミ箱からかぐや姫《らしき人物》がのっそり出てきて、声が小さくて何をいってるかわからない。

⚫生明かりで舞台全体を照らしているのにいきなり、中途半端な小さいボリュームで雷鳴が響く。
それに「う、うわぁー」と棒読みでリアクションする舞台上の数人。

⚫そのあと普通の会話中なのに、突然暗転しストロボ照明の点滅。
おそらく先程の雷鳴を表す照明。
この舞台では音速が光速を遥かに凌駕していた。

⚫主人公《らしき人物》が、舞台中央でたった一人ピンスポを当てられているなか
「えっと…あれ…かぐや姫…?…が…」とまさかの台詞ド忘れ。

⚫台詞ド忘れの時点でたぶん観客は呆れを通り越して応援してた。

(頑張って…思い出して…)
(むしろ暗転して終わろう…)
(もうかれこれ20分無言…)




いろんな意味で観客の心が一つになった舞台を生まれて初めて経験した。

会場の一体感だけ比較すれば、クイーンのライヴに匹敵する(諸説あり)

あの緊張感は、普通の舞台では味わえないと思う。
幕が降りた瞬間、観客全員が安堵したことだろう。

後日、出場校による全体の合評会で、その演劇部は別の高校の先生からマジギレされてた。

その合評会も含めて、もう一度見たい。
真似しようにもあんなんできひんやん普通。
マジギレした木口先生元気かな。

真面目な話、十年も前のことなのに、ここまでつぶさに思い出せるような舞台を作り上げたあの演劇部には本番中に神が降りていたのだろう。もしくは悪霊の神々が…

どんな劇でも思い出してもらえる劇はそれだけで価値があるという、個人的信条を打ち立てているので、あれはあれですごかったのだ。

これが、私がもう一度見たい舞台です。f:id:akiLa:20181128141535j:plain