知らしめるためのブログ ~akiLaの日記~

主にお知らせ、それにまつわる物事についてつらつら書きます。

ABA分布

たしか、鹿児島のトシドンは以前に文化遺産登録されてたよね。 言語学をかじったことがあるので、トシドンとナマハゲを見るとABA分布という概念を思い出さざるを得ない。

 

ABA分布というのは、僕の主観も入るけど簡単に言えば 「もっとも遠いもの同士が同じ性質をもつ」という分布。 昔は京都が言語、ことばが生まれる中心だった。 そこを中心に西と東へ京都の文化のことばが広まっていく。 その間に京都でまた新しいことばが生まれる。

そーなると、最西端と最東端にXということばが到達したときには、
京都ではすでに新しいYということばが生まれている。
従って、まるで北極と南極が同じような極寒の世界であるかのように
最西端と最東端が同じようなことばの特徴を持っている、という現象が起きる。

例えば、鹿児島や福岡などの九州地方と山形や秋田などの東北地方では
助詞「ーを」の方言として「ーば」を用いることがある。
九州と東北で同じ方言が使われている。ABA分布の影響があると考えてよいだろう。
そして、ことばは文化である。文化には当然祭礼も含まれる。

ABA分布によって、極めて距離が遠いはずの秋田のナマハゲと鹿児島のトシドンが酷似しているのは至極当然の結果であるという帰結になる。

しかし、恐るべき深淵はそこにはない。この鬼という表象、イメージが世界中に古来から存在するという歴史的な事実が恐ろしい。

水木しげるが描いたスイスの怪物ロイチェクタなどはまさにナマハゲなどのような風貌であるし、腰みのを着ける南国の妖怪たちとも共通性がないとは言い切れない。
本能的な恐怖や快楽が、文化を造る種であった。
現代のもっとも恐ろしい陥穽のひとつは、「何も感じないこと」が可能になることだ。

何も感じないでずーっと仕事をしてたり、何も感じないで食べて、寝て、それを繰り返すことができてしまうことは、有り体にいえば生きながらにして死んでいる。
そして、そのような生活をする人間ほど長く生きてしまう。恒常性が保たれるからだ。

危機に瀕しても、ホメオスタシスに慣れきった脳は臨機応変な対応が果たしてできるだろうか。

怖い!とか、嬉しい!とか。

大人びていくと虚無に落っこちて、
そういう気持ちがニセモノなんじゃないかと思ってしまうことがある。

それがずっと続くと、肉体は恒常性を保っているが、脳味噌は死んでいく。
だからこそ、定期的に自分を仮想的限界状態に、ポイ、と放り投げる。投企する。

じゃー、お化け屋敷に毎日入ってろってことか?当然違う。

たとえ毎日、異なる世界中のお化け屋敷にいったとて、行き着く先は何にも驚かない肉人形である。

ずっと驚かされるのはいやだ。
ーーだから、明日は驚かしてやる。

その、自分から発する気持ちが、表現に繋がる。

…まあ、こんな気持ちで毎回のワークショップの内容を考えてますwww

カオスをすっとぼけの糖衣で包んだワークショップ。頑張ります。